東武宇都宮駅のすぐ脇。
路地に入るとすぐに、白い壁のすえひろ食堂はありました。
- 小さいけど人目を引く外観。
チヨさんは禰宜さんから話を聞いていたらしく、ボクの訪問をとても喜んでくれました。
「ソマレが日本に来た時わたしも呼ばれてね〜、ハッハッハ」
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第二次世界大戦中、かつて地獄と言われたパプアニューギニア。15万人の兵士のそのほとんどが、餓死。クモすら食べねばならない、米軍、豪軍よりも恐ろしい餓えとの戦い。
そんな悲惨極まりない戦場下で、「宣撫」という現地人に戦争の目的を伝え、人心を落ち着かせ治安維持活動をする任務にあたる兵士がいました。
チヨさんの夫、柴田幸雄中尉(船舶工兵第九聯隊、故人)もそのひとりでした。
柴田中尉はセピック川付近のある村に住みながら、明日には自分が死んでしまうかもしれない状況の中、日本の戦争の目的を村人たちに伝え、パプア人自らが国を興して独立できるよう、真の教育を行ったのです。
かつてのその村の生徒はこう言います。
「私たちは学校というものを見たこともなければ聞いたこともなかった。そこで何をするのか?勉強とはどんなことなのか?まったくわからなかった。」
当時8歳だったその学校の生徒は、首都ポートモレスビーの高校に進学し後に教師となり、さらに1970年代のパプアニューギニアの独立運動に参加後、国の代表にまで上り詰めました。
パプアニューギニア初代首相マイケル・ソマレはその学校の生徒だったのです。
戦争が終わって数十年経っても、柴田中尉の教えは脈々と流れ続けていたのです。
マイケル・ソマレが首相になって初めての海外渡航、それは日本でした。
柴田中尉に会うために。独立の教えを説いてくれた、そして何より勉強が何かを教えてくれた恩師に会うために。
そして遂に、大使館を通じてソマレ少年とキャプテン・シバタは奇跡的な再会を果たしました。
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「セピックの村の学校に行った時、ソマレも駆けつけてくれてねぇ〜」
「村の子がわたしみたいな年寄り見ると喜んでねぇ〜、持ち上げるの!ハーハッハ」
この記事を書いていて気づいたことがあります。
パプア人が日本人のことを大好きなのは、日本政府が橋やラジオ塔などの無償支援をするからだと思っていました。
でもそれは微々たること。
原点はマイケル・ソマレと柴田中尉との関係にあるのではないでしょうか。
ごく個人的、でもとっても深いふたりの友情が、今や国と国との友好関係になっている、そう感じずにはいられません。
- すてきな笑顔で迎えてくれました。
- 所狭しと並ぶパプアグッズ。奥写真がマイケル・ソマレ首相
- シバタ学校の写真を見せてくれました。